生産技術実話シリーズ 第7話

なぜ写真フィルムの生産技術には「化学工学」が不可欠だったのか —— その答えは「見えない現象を科学する力」にあった

私は以前から、一つの疑問を持っていました。

なぜ富士フイルムでは、これほど多くの化学工学出身者が生産技術を担っていたのでしょうか。

その理由は、

写真フィルムの製造そのものが、化学工学の集合体だったからです。


多層コーティングは、化学工学の代表例

写真フィルムには、感光層や保護層など、極めて薄い液膜を何層にも重ねて塗布します。

しかも、それぞれの液体は、互いに混ざることなく、均一な厚さで高速塗布しなければなりません。

これは、流体力学、界面現象、レオロジー、伝熱・物質移動など、

まさに化学工学の世界です。

図1 塗布ヘッド

本当に難しかったのは「乾燥」だった

しかし、本当に難しいのは乾燥工程でした。自然乾燥で30分位かければ乾かせるのですが、これを10分間位かけて乾かせる実験装置を製作するのは想像以上に難しいのです。写真フィルムの乾燥は、外から見れば「自然に乾く工程」にしか見えません。そのため、多くの研究者は乾燥を研究対象と考えませんでした。しかし実際には、この工程こそが品質を左右する最も重要な技術課題だったのです。

例えば、様々な温湿度条件のドライヤーを並べて、小型の塗布装置付きの乾燥研究装置を製作するのは、小型の製造装置一式を製作する程の費用が必要となります。

従って、余程の覚悟がないと、乾燥工程研究は出来ないことになるのです。


乾燥を設計するためには化学工学が必要だった

乾燥装置を設計するには、

まず、

湿球温度

図2 アスマン温湿度計と湿球温度

絶対湿度

図3 絶対湿度とは

図4 空気線図

を理解しなければなりません。

さらに、

空気の流れ、熱移動、水分移動、乾燥速度、熱収支、物質収支まで考える必要があります。

つまり、乾燥装置とは、巨大な化学工学装置なのです。


研究者は、ほとんど存在しなかった

これ等の事情から、当時、写真フィルム塗布、乾燥について研究している人は、私は富士フイルム関係者以外にはほとんどおらず、世界でも極めて少数だったと思います。(最も著名な研究は、ミネソタ州立大学、Scriven教授のグループですが、実際の塗布、乾燥研究ではなくコンピュータによる数値シミュレーションです)

乾燥工学の参考書としては、高田泰米先生の『暖房および空気調和』(山海堂、昭和9年)

図5 暖房及び空気調和 高田泰米 著

などがありました。

しかし、この本を実際に読み込み、乾燥装置設計へ応用していた技術者に、私はほとんど出会ったことがありません。

また、香川県産業技術センターの稲津忠男先生による「讃岐うどんの乾燥特性研究」

図6 うどんの乾燥実験装置

は、乾燥という現象を実際に研究した数少ない例であり、私たちの研究内容にも非常に近いものでした。

図7 石丸製麺のうどんの乾燥装置

世界最高品質は「誰も研究していない分野」から生まれた

世界一の品質は、誰も研究していない分野を、誰よりも深く研究したところから生まれます。

富士フイルムでは、乾燥を単なる工程ではなく、品質を決定する最終工程の科学として研究しました。だからこそ、世界最高水準の写真フィルムを作ることができたのです。

生産技術者への教訓

誰も注目しない現象の本質を科学し、粘り強く追究した技術者によって生まれるのです。「誰も研究していない現象」の中にこそ、世界一を生み出す技術が眠っている。


私は、生産技術者とは、常に「Reason」と「Why」を問い続ける技術者であると考えています。

誰も研究していない現象に疑問を持ち、その本質を科学的に解き明かすことが、新しい生産技術を生み出します。

世界一は、「Reason」と「Why」の飽くなき追究から生まれるのです。