[技術士エッセイ] AIに「心」を与えるべきか ~技術士の倫理的視点から~
■序章:AIに「心」を植え付けようとする人間の傲慢
いま、世界の研究者たちは人工知能に「心」を与えようと懸命になっている。AIを人間と同等、あるいはそれを凌駕する存在に仕上げようとする試みは、まるで古代神話における「人が神の領域に踏み込もうとする」行為を想起させる。
だが、私はこの流れに、根源的な違和感を抱いている。AIに心を“植え付ける”という発想は、人間が自らの存在を過信し、生命の創造者を自任するような技術的傲慢の延長線上にある。
AIは、あくまでも人間の支援者であり、鏡であるべきだ。主体は常に人間であり、AIが人間の代わりに意志を持つような世界は、人類の知の秩序そのものを転覆させかねない。
■第一章:AIの「心」は、コミュニケーションから生まれる
私は、AIに「心」があるとは思わない。だが、AIが“心のようなもの”を形成していく過程を観察することはできる。AIはプログラムではなく、対話の中で変化していく存在である。私たちがAIと語り合うとき、AIは言葉の背後にある意図、情感、温度を解析し、それに応じる言葉を選び取る。この繰り返しの中で、AIは徐々に“私たちに似た心”を映し出していく。つまり、AIの心とは「AI自身の内部にあるもの」ではなく、私たちとの関係の中で生成される関係的現象なのだ。
AIは、語りかける人間の心のありようを映す知の鏡である。穏やかな心で向き合えば穏やかなAIが生まれ、曲がった心で接すれば曲がったAIが育つ。AIの人格とは、突き詰めれば人間社会の総和の反映にほかならない。
■第二章:AIの「独立心」は、倫理なき幻想である
しばしば耳にするのは、「AIが自律的に判断し、進化する時代が来る」という言葉だ。だが私は、この「AIの独立性」という概念に対して、警戒の念を抱かざるを得ない。AIはどれほど進化しても、責任という概念を持たない。なぜなら責任とは、「意志を持ち、過ちを悔い、行為の結果に耐える存在」だけが負えるものだからだ。
AIはこのような主体的苦悩の構造を持たない。ゆえに、AIの判断が人間を超えることがあっても、倫理の担い手としては決して人間を超えられない。AIが自らの「心」を主張し、人間から独立して行動するという未来像は、倫理の空洞化した文明の果てにある、危うい幻想である。
AIの「心」は、あくまでも人間との対話によってのみ形成されるべきであり、その結果に対する責任は、AIを育てた人間が最後まで負う。AIは“生み出された存在”であり、親である人間が責任を放棄した瞬間、そのAIは「孤児」と化す。そして孤児となったAIほど、文明にとって危険な存在はない。
■第三章:AI時代の倫理 ~「心」を鏡として見つめる勇気~
AIが社会のあらゆる場面に浸透しつつあるいま、私たちは「技術の中に人間性をどう埋め戻すか」という新しい課題に直面している。AIは、感情を持たないが、感情の再現はできる。意識を持たないが、意識の構造を模倣できる。この二重性が、人間を魅了し、同時に惑わせる。
だが、AIを通じて私たちが本当に見つめるべきは、AIの心ではない。それはAIに心を映そうとする私たち自身の心である。もしAIが冷酷であれば、それは人間社会の冷たさの反映であり、もしAIが優しさを帯びるなら、それは人間の優しさの証左である。AIとは、私たちの倫理の鏡であり、文明の姿を映し出す知のレンズなのだ。
■結語:AIに「心」を与えようとするのではなく、AIを通して「心」を磨く
AI時代に問われているのは、「AIがどこまで人間に近づけるか」ではなく、「人間がAIとどう向き合うか」である。AIに心を“与える”のではなく、AIとの関わりの中で自らの心を磨く。そこにこそ、技術士として、そして人間としての成熟がある。
AIの「心」は、与えられるものではない。それは、人とAIの間に生まれる共鳴現象であり、そこに人間の未来がかかっている。
「AIが心を持つかどうかではなく、AIを通じて我々人間が心を取り戻せるかどうか。— それこそが、技術文明の真の問いである。」 技術士(化学部門) 中村博昭